8月末 誤配
東浩紀著の「哲学の誤配」は良著だと思うし、影響されている。
「誤配」を辞書で調べると
[名](スル)郵便物や品物をあて名と違った所に配ること。「―された郵便物を差し戻す」
と、どちらかというとネガティブなミスを意味している。
が、「誤配」はいい言葉だと思う。
“間違った行先に届き、間違って理解されること。“
が、体験として実装し、続けるとその間違いも意味を持ち始める。
そういえば、デザイナーを志し、建築学科を卒業し・・・てもなんでもない私が、今のこの業界にいるのは全く持って「誤配」でしかない。
それでもなんとか生きていける。
今の世の中では「誤配」は限りなく起きにくくなっていると思う。
自分で調べたい事を検索できる。それを繰り返すとあなたの手の中にある端末はそれを記憶しレコメンドしてくれる。ぼくの端末とあなたの端末では検索結果が違う。
自分が考えた検索ワードで検索し、答えを得る。
ほとんどのことが「予想の範囲内」でおさまり、見たいものだけを見ることが出来る。
TEDというものがある。新進気鋭のアーティストや学者やビジネスマンが完璧にコントロールされたプレゼンテーションをピンマイクつけてお見舞いするかっこいい奴だ。
誤配の逆はきっとあれだ。完全に意図的に計算的に、「それを聞きにきている聴衆に聞きたい事をピンポイントで聞かせる」。完全だ。
東浩紀は自身の主催のイベントをこういう
「ゲンロンカフェはTEDが3分でやっていることを3時間かけてやっている。お酒を飲みながら。言いたいことがなくなってからが本当のディスカッション。かなり無駄な事をやっているように見えるかもしれないが、その中からイノベーションが起きるかもしれない」
そう考えると「意図した相手に意図的なメッセージを送る」はマーケティングそのもので、
「誤配」はそれとは反対側にある。
そういえば新しいスタジオ出店を決めたのは、友人とぐでんぐでんになりながら駄話をしていた居酒屋だった気がする。
まあ、そんなものである・・と言ってしまうと軽薄に聞こえてしまうかもしれないが、事実そういうものだった。
で、「誤配」「間違い」に対して嫌悪というか拒否感がある人の根本には「人生はコントローラブル」信仰がほんの少しあるのだろう。
今、ゴルフが楽しい。が、当初は苦しく退屈でしょうがなかった。
要はよくある当時の上司、先輩からの「お前もやれ」系である。
が、今は感謝している。嫌々な自分を懲りずに誘ってくれて。
今の時代はきっとこんなことは批判の対象なんだろう。
が、「自分が心地よいと思う趣味」以外を選ばなかったら、こんなに面白いスポーツに出会っていなかっただろう。
これも「誤配」の亜種だと思う。
小学生5年の頃、いわゆるファンタジー小説ばかり読んでいた。が、突如父に「四の五の言わずにこれを読め。文句を言わずに読め」と渡された小説がある。
司馬遼太郎だった。
おそらくある種強権に「読め」と言われなかったら読んでいなかったかも知れない。
が、自分の人生の中の哲学的な基礎を作ったのは司馬だ。
これもある種の「誤配」だ。
自分単体では絶対に選ばなかったが、過去振り返ると「血肉になっている」は多い。
あえてアラフィフらしく、おじさんくさい事を言ってみると、今の若者には「おしつけ」「強権」はご法度で、ネットも発達し限りなく「誤配」はない。
それは「コントローラブル」な中だけで生きていける素敵なことなのか。それとも用意された答えをただ確認していくだけになってしまうのか。
全くもってわからない。
が、間違って届けられてしまったものに助けられ、発想を得、どうにかやりくりして生きてきた私は「いいからゴルフやれや~」という少々強引な先輩に感謝している。
「誤配」には感謝しかない日々なのだ。
効率や無駄、計算とは遠く離れた、どうでもよい事をグダグダとしゃべくっている数時間に及ぶ、居酒屋時間も僕にとっては宝物の日々なのだ。
「そのグダグダな時間、なんか意味あるんですか。」とフランス在住のコメンテーターみたいな意見があるのも知っている。
意味なんかなくていいのだ。その価値は10年後にわかる。
この文化よ。コロナにも負けず、続いてくれていることにありがとうと言いたい。