言葉
抽象度の高さ低さという議論がある。
「受け入れられるなら万物は師となる」とは詠み人知らずだがいい言葉だなと思う。
技術、知識、いわゆる学問になっているものは教えられる。
が、社会人になると、この「生徒」でいられる時間は思ったよりも少ない。
で、この「生徒」でいられる期間の大切さにも気づきにくい。
前述した抽象度の高い「明文化された知識」や「学術的な数学」は、明確に「教えられる時期」がある。
が、抽象度の低い「生き方」「振舞い方」「仕事でお金をもらう事とは?」というふわっと事に関して「教えられる」がむつかしい。
「じゃあ、生き方を教えよう」も「仕事とは?っていう哲学ってな」などと教えてもらう事はないし、教えもしない。
目に見えない「人の関係性」から感じ取り、学び盗るしかないのだ。
が、そここそがまさに大切な学びになる。
僕も勝手にそうしてきた。
本当に大切なことは、目に見えない。
明文化されていない関係性を感じ、仮説を立て、実践し、修正し、上手くいったり失敗したりして、自らの哲学へと積み上げていく。
そうやって少しばかり頑固になっていくのだが、自らの経験を積み上げた人が吐く言葉は届く。響く。好きだ。
そうではない人間の「世の中分かってる感」満載の言葉はどうか。
ネットではあらゆる「いい言葉」があふれている。
が、そんな引用はすぐにバレてしまうから怖い事なのだ。