スタート@2019
皆さま、明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。
さて、本日からです。
恒例の姉崎神社から。全員元気で・・・・と思ったら、その後ぶっ倒れて病院に運び込まれて、結果、インフルだった子もいました。
皆さま、お気をつけて。インフルシーズンはこれからです。
さて、一応正月らしく、意思表明みたいなものを。
仕事をしていて、「ある事」に対して、当事者になるつもりの人と、そうではない人がいる。
※ある事というのは、特定の事ではなくメタファー。あらゆることと言ってもいい。
前者の前提となるマインドは「ある事を達成するのは私だ」と思っていることで、後者は「ある事を達成するのは私ではなく、誰かだ。私はお手伝い」と思っている。
当事者になるつもりがない人は、「自分の努力が僕たちの未来を決める」と思わない。いや、思えない。目の前に起こった事に、本気で向き合い、解決したり、数字を上げたりすることで、そんじゃそこらの事では揺らがない自信を得られない。
当事者になるつもりがない人は、「環境」への文句が多い。環境を自ら変える、作るための「一番最初の一声」を自ら掛ける事事がない。よくない環境は、自分のせいではなく「私以外」に原因があると思う。よく使う言葉は「なんでおれの事をもっと認めてくれないんだよ」と、「こんな自分に誰がした」だ。
当事者になるつもりの人は、起きた結果を受け止める人だ。要は「引き請ける人」だ。
だから考える。主体的な努力をする。他でもない自分の人生の為に。先天的な能力なのか子供の頃の教育なのか、大人になり自意識的に身につけたのかわからないが。
何かを成し遂げられるのは、自分の努力と、決心なのだ、と本気で思って生きている人は素敵だ。年下も、年上も、入社3か月の新卒も、、平も主任も部長も役員も、10年選手も全くもって関係なく、「当事者」と「それ以外」がただただ、そこにある。
ただし、「当事者意識を持とう」なんて言うつもりはない。全く。
それは何故か?
当事者意識を持っているのかどうかは「当事者として生きると意識を持てた後」にようやく、気づけるからだ。そうか、これが当事者意識かと。あの頃の僕は、当事者でもなんでもなかったのだなと。
逆に当事者になるつもりがない人と組むと、そのプロジェクトは中々大変だ。
調べない、トライしない、思考しない、締め切り間近で「教わってないから出来ない」とくる。
僕はチーム戦を選んだ。結構本気でここ千葉県で最も素敵なチームを作りたいと思っている。
※定義はともかく
願わくば、「私は僕は当事者足らん」としている人の集団でありたい。それはきっと、スタートラインに立つ最低限の資格だ。本レースに出走できる予選通過条件だ。
道のりは長く苦しいが、きっと楽しい。