2月 終盤 カルチャーギャップと排除理論
今年に入り面談が続いている。
その人本人がやってきた職歴や、目の前でみせる佇まい、話し方、話す内容は当然、
一番重要視しているのがうちの文化に合うかな~という「カルチャーフィット」。
では、面談で見抜けるかというと、土台無理な話だ・。当たり前だが人は人を観抜けない。
仕方ないとあきらめているし、そんなに自分は優秀ではない。
が、「カルチャーフィット」は言葉でいうととても良い響きだが、裏を返せば
「似たもの同士で行くぜ・それ以外はノーサンキュー」という排除の理論とも言えなくもない。
いや、言える。
少し前になるがニュースでこんなニュースがあった。
福井県池田町が広報誌に載せた“移住の心得七か条“クリック!!
要は、都会の方がわが町(田舎)にくるときは、こんな覚悟をしてきてくださいよ。
という内容だ。
ある意味、事前に教えるのは親切ともいえるが、「都会風を吹かすな」的な文言は、
さすがに荒れるだろうなとも思ってしまう。
また、別でいうと、最近人気のイエール大学教授の成田佑輔氏が
成田悠輔氏「高齢者は集団自決」発言になぜ海外メディアは強く反応したのか? 露呈した人権意識のギャップ | クリック
とあり、問題になっているらしい。
よく読み込むと、なるほどと思う事もあるが、「高齢者」「集団自決」という言葉が強すぎるので、
真意までたどり着かない。また、自分の祖母に同じ事が言えるかというと、絶対に言えない。
僕ら規模でいうと「一緒に働きたい人はどんな人なのか?」と強く問う。
一日8~10時間一緒にいる人、かつ、企業には目的があるので、そこにむかう目的意識は近い人がいい。居心地がいいに越したことがない。
が、強く出過ぎると「排除論」に近づくのもわかる。
が、こうも思う。
「無制限に寛容であるコミュニティ」はあり得るのか?だ。
企業では先ほどの話のように寛容とは程遠い。
宗教ではどうか?当然経典があり結構排除の歴史だ。
政治結社では?当然、護憲、改憲などでわかれる。
そういう意味でいうと多様性、異文化コミュニケーションにはかなりのコストがかかるな。というのがわかる。
例えば男子もトイレでは座ってする。がルール。
が、守らない人がいる。
何度言っても直らないが、「排除」が選択肢にないので、トイレの床材を汚れてもふき取り安い素材に変える。
が、やはり汚すので、清掃屋さんを雇い定期的に掃除してもらう。
床材の変更と清掃屋さんを雇うコストがかかる。このコストは誰かが負担する。
商売をやっているとしたら人件費のカットか商品の値上げになる。
もっと極端な例を出すと「必ず遅刻をし、納期が遅れる人材を排除しない」はあるのか。
この人の周りが、「全てカバー出来うる余力と資力」があれば問題ないのかも知れない。
が、大手、財閥系ならばいざ知らず、中小企業でその余力があるのか。この日本で。
僕はないと思う。
多くの企業が組織内の健全性、コストの健全性を理由に、多くの人を排除してきたし、これからもそうだろう。
成田佑輔氏の「高齢者は集団自決論」も、
社会保障は130兆円ー子育て支援はそのうち9兆円・・・のようなシルバー民主主義へのカウンターなのはわかる。
今までは企業でいうところの「周りの人の余力と資力」でカバー出来てきたが、納税者が高齢者をカバー仕切るのは”もう無理”のシグナルなんだろう。
日本全体が縮んでいく中で、きっとこの「排除論」は強まっていくと思う。皆の本音はこうだ
「もう無理、カバーしきれないっす・・・」と日本中で皆が叫んでいるように見える。
「カバー出来うる周りの余力と資力」はきっとほとんどない。
長くなってしまったが、きっと、幸福な暮らしの中には「適度な閉鎖性と同質性」があるように思う。が、そんな事をいうとそれは差別的だと指摘されてしまうのだろうか。
そこにも興味がある。
ちなみに、心理的安全性が重要であり大切だ!と標榜してきたGOOGLE社が大規模なレイオフを実行している。GOOGLE社だけではなくGAFAM全体でも1月だけで数十万人。
いずれにしろ、全ての美しい言葉や理想論の裏には「余力と資力があればこそ」という枕詞が付いてしまうのではないか。
そんな事を思ってしまう。