2025年9月 中盤 自由の取説
早朝、夜半はさすがに涼しくなってきましたね~。
一日15000歩から20000歩くらいを目安に歩いていますが、快適。
が、あっという間に冬が来そうですね。
さて、先日は札幌に続き、香川へ。
友人が新モデルをということで。見学させていただきました。
うん。かっこいい。(A藤さんありがとう!!)

こういう方向性、嗜好性の家をかっこよい、素敵だと思う感性がある人が建てた。
それでいい。
来年、マーケティングを一切捨てて、超好みのモデル(家?)を建てようと思う。
偏りと偏見と好き嫌いに満ちた家だ。
建築会社の経営者にあるまじき”大衆の目””トレンド””水平展開性”を一切捨てたデザインの家を。
もう骨子は出来て、コンセプトと命名もできている。酷評も含め世間のフィードバックも楽しみだ。
来年、北米に視察に行ってこようと画策している。
さて、主体性、自由を使いこなすには??という問いだ。
↑これは自分、自社に置き換えてみての課題だなと思う。
「主体的に自由にやりたいことを選ぶ人生」は素晴らしい言葉だと思うが、これに耐えうる人はほとんどいない。
0からのたたき台を出すよりも「誰かが提案したある提案物」に対して
「ここが足りない」「ここが甘い」「ここがずれている」と反対意見を言う方が数倍楽なのは自明だ。
最初に発言し、提案する人は責任を引き受ける。が、「そうじゃないんだよな~ここ」と粗探しする人は、結果責任を負わずなおかつ、0→1を出した人よりもちょっとだけ賢く見えるし、そうふるまえる。
有名大学卒の人気職種の上位に、外資のコンサル業がくるのはこういう理由だとも思う。
要は何かを作り出す側ではなく、「こうしたら上手くいくんじゃないですか」「こうやった方がいいですよ」とアドバイスする側に回る最上流工程にいる。
で、そのアドバイスの結果、上手くいなくても特に大きなものは失わない。
いや、まずは何かつくって世に出せよ。なんでいきなり社会にでて「人にものを教える側」にまわりたいのよ。って突っ込みはきっとやぼなのだ。
話しを戻そう。
仕事、そして人生といってもよいかもしれないが、
・強制的にやらされたコト
・ある程度の枠を誰かが決めており、その中で創意工夫をすること
と、
・全て好きにやっていいよ。手段も量も時間のかけかたも。その変わり全責任をおってね。
の2択だった時に、どちらが幸福か、かつ、どちらのパフォーマンスが上がるのか、だ。
が、これは極めて難しい。
自由といっても、結局、自分の観測範囲のなかでの自由であることは自明だし
自らの認知能力にも限界がある。
で、自分を含め多くの人は「すでに決められたスキームの中で目標を達成する中にある創意工夫権」を自由とするくらいがちょうどいいのではないか論。
人は自由を得ても上手く乗りこなせない。
少なくとも自分には無理だ
だから、法人をつくり、人を雇い、商品という枠を設け、一定のルールの中で創意と粘り強さで食べるって方向になった。
また、自分を形つくっているのは「自らが主体的に選び取ったもの」以外からの方が影響が大きいという自覚もある。
活字に苦手意識がないにも、幼少のころから半ば強制的に読書週間をつけさせられた。中学時代に本田勝一を読ませられたのだ。うちの親父もたいがいな親だった。
今、一番面白いと思う趣味、ゴルフも強烈なトップダウンがなかったら始めていない。が、今はそのある種の強制性に感謝である。
年70本近く観る映画館での映画鑑賞もそうだ。
自分がデザインや美景に興味を持ったのはおそらく強烈な映画体験からだろう。
が、これも自ら選び取ったわけでもない。中学生の頃に”羊たちの沈黙”と”今を生きる”の同時上映をかまされたのがきっかけだ。
人は誰かに枠を設けられ、誰かに「こっち走ろうぜ」と言われなければ走らない。「磯野〜野球しようぜ〜」は正義なのだ。
一人では走れないのだ。大谷、イチローじゃないんだから。
マラソンの高橋尚子さんが大好きだが、やはり小出監督とタッグを組んでいた時の方が強くしたたかだった。離れてからパフォーマンスが下がったように見えた。
自由は人を弱らせ、パフォーマンスを上げない。
ごく一部の超努力家を除いて。
この問いだ。何でも自由に選べる環境にいる時に一番キツイ道をあなたは選べるのか?だ。
世に出回っている「やりたいこと、好きなことで私らしく生きていく」系の言葉に苦手意識があるのもこのおかげだ。
強制されて好きになったもん、得意になったもん、ないのか??と。
スタッフにもいいたいし、自分にもあえていいたい。
自由過ぎる世界は世知辛い。要は「すべてが自己責任の強烈な才能×努力がものをいう弱肉強食」社会だ。
凡人には無理だ。
採用面接をここ数カ月で20本近くやってきたが、いの一番に「欲しいのはチーム戦が出来る人」と伝えるのは
僕自身がもう自由と戦えない人だという自覚からなのかもしれない。
これも一つの老いの証拠でもあるし、ある種のしたたかさなのかもしれない。
みんな、あんまり自由をありがたがるなよ。と伝えておきたい。