10月初旬 補完するもの
さて10月です。
年末の行事ごとが予定表に次々と記されていくと
なんとなく心もざわざわっと。2024年も第4コーナーなのです。
頭の良い人は難しいことを誰にでもわかるように説明する人論があります。
一部正しいなと思いますが、”ある程度はね”がエクスキューズで入ります。
「理解できる程度に単純化された言語」「わかった感の醸造」
話が上手いなと思う人は特に話す対象に対しての「単純化のチューニング」が上手い。
ほとんどの人があるトピックに関してはプロでも、あるトピックに対してはど素人なので、
話し手と聞き手を交互に行きかうのが仕事であり、暮らしそのものです。
人前で話す事が時折あるのですが、聞き手が多様な場合、どこの高さにチューニングするのかを迷う時があります。
弁が立つ人がいます。
その人の話を聞いた直後は、お~と、思うのですが
数時間後にはほとんど何も残っていないことがあります。
わかった感を醸成するのが上手い人はこういう感じなんだろうと思います。
完全に自省を込めてですが、わかりやすく、すっと入ってくる話は裏を返せば
「理解できる程度に単純化された言語」「わかった感の醸造」には良いでしょう。
ある人が言っていた、話をしていて面白い人の条件は「手加減しない相手」だ。とあった。
単純化も誘導もせず、好奇心のままに質問でき、好奇心のまま質問され、手加減無しで知識を総動員して答える。
色々な経営者や顧客と話していて、あ~この会話は向こうは物足りないのだろうな~と気付いてしまう瞬間がある。
「これは相当手加減させているな」という感覚だ。
美術系の話を聞いている時に時折おこる。
年齢を重ね、立場も少しずつ変化し、会話を交わす対象も変わっていく。
私は無学ではあるが、無教養ではいたくはないなと思う。
そういえば、自分が興味をもつ対象(話し相手)も、「博識」である事が多い。
ゲスで俗っぽい言い方をあえてすると、「教養は金になるのか」がある。
事実ある。としか言いようがない。
信頼されるとか、信用される、という定数に出来ないものを補完する意味でも、教養は大いに武器になる・・・と勝手に思っている。
決裁者、キャスティングは常に人が握っているからだ。
キャスティングはアルゴリズムやAIやスコアリングが決めない。
感情を持つ人間が「まあ、なんとなくこっちっしょ」「とりあえず任せてみっか」であることが多い。
※自分の観測範囲では。N値は少ない。
こんな事を書くと、丸山真男の「である事」と「する事」論が出てきそうだが。
体力、早さ、持久力、集中力の持続性も落ちた自覚がある。
それに代わる何かが必要になるのだ。すべての人が。
40歳を超えた時に「教養」は、落ちてきた能力の補完材料として有能だと思う。
本を読む習慣と、
文章を書く習慣
過去から培われてきた芸能、落語、いわゆる芸事。
そして色々な職種、立場、年齢の人との会話。
そうなるとやはりSNSと教養の相性はよくないのだろうなとも思ってしまう。